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沿革

いろいろな京都の西洋建築と21世紀に向けて躍進をつづける株式会社灰孝本店

明治18年(1885) 
店主山内房治郎、灰孝本店を創業する。
創業者山内房治郎(現在の灰孝本店社長山内一正の高祖父で任天堂株式会社の創業者)が親元の石灰問屋「灰岩」を継承し、灰孝本店に名称を変更し事業を始めたのが創業の始まりである。丁度その頃、京都府が琵琶湖疏水事業を始めたので三井家の上層部と懇意だった山内房治郎は三井家を通じ小野田セメントを仕入れて、疏水工事に販売納入した。これがきっかけで小野田セメントを扱う様になりすでに100年以上の歳月が流れた。
大正7年(1918) 
二代目店主山内積良は三井物産(株)と小野田セメントの特約店契約を結び灰孝は建材を任天堂はかるた、トランプと両方の店を経営する。
我が国にコンクリートの建物が建築される様になり本格的なセメント販売を行い、店主は山内房治郎から山内積良へと交代し、かるた、トランプの任天堂と石灰セメント問屋の灰孝本店の二つの店を経営する様になった。このとき、灰孝本店は三井物産鰍通し小野田セメントと特約店契約を結んだ。 
昭和2年(1927) 
三代目店主に山内源蔵がなり任天堂より分離独立する。
山内家は代々女系家族で姉「君」妹「孝」の二人の姉妹であったので、それぞれに養子縁組をさせ、姉の君には「かるた」と「トランプ」の任天堂を、又妹の孝には「石灰」や「セメント」などの建材部門を扱う灰孝を継承させた。即ち孝は養子山内源蔵と結婚し、源蔵は灰孝三代目の店主となり任天堂より分家独立した。
昭和17年(1942) 
戦時、物資統制令で灰孝本店は廃業、セメント配給会社京都支店となる。
太平洋戦争への突入で物資統制令により企業整理にあい、灰孝本店は廃業し山内源蔵がセメント配給会社の京都支店長になった。 
昭和20年(1945) 
戦後は三井財閥が解体し、灰孝本店は個人より株式組織に改め小野田セメント鰍ニ直接特約店契約を結び再開した。
同じ頃山内源蔵は岩倉村長、京都府町村長会長を歴任する。終戦後いち早く灰孝本店は小野田セメント特約店として再開にこぎつけ株式会社組織とし、滑D孝本店の名称となった。山内源蔵は愛宕郡岩倉村の出身であったので、実兄金田弥栄蔵(元府議会議員)が岩倉村村長を退職したのを機会に岩倉村村長に推されて、昭和20年から昭和24年迄村長を歴任し、その間京都府町村長会長にも就任した。岩倉村が昭和24年京都市左京区になったのを機会に村長を退任した。
昭和39年(1964) 
四代目社長山内康正就任する。
山内源蔵が急逝したので、山内康正(副社長)が代表取締役社長に就任した。 
平成13年(2001) 
五代目社長山内一正就任する。
めまぐるしく変化する社会情勢の元、適格に対応出来る様又将来を見据え若い力を導入し世代交替。

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